最近、特に神社に参拝させていただく事が多くなった。
なぜかと言うと以前にも増して神社に魅力を感じているからだ。
なぜ神社に惹かれるのかというと、自分の精神の成り立ちを知りたいと思うようになったから。
日本人としての頭の中の思考回路がどのようにして形作られているかを知りたいと思った。
そうした思いを持って神社巡りをしているのだが訪れた神社は実に様々だ。
その中でも、嗚呼ここに神さまがいらっしゃる、と管理人が感じる場所がいくつかある。
今回は管理人が初めて、嗚呼ここに神さまがいらっしゃると感じた場所である櫛石窓神社のことを書いてみたい。
パワースポットという言葉は大嫌いだ
最近世の中にご利益を受けようとしてパワースポットという言葉が溢れている。
パワースポットと言われる場所の中には神社も数多く入っているようだ。
そんなパワースポットへ行けば何かしらの力を授かり自分がグレードアップするということなのだろうか。
考えてみれば、自分のことだけ考えてなんと勝手な思考回路なのだろうと思う。
神社には氏子と呼ばれる神社を守っている方々がいる。
そんな方々は代々その神社に奉仕をして敬虔に信仰されている。
そこにぽっと出の訪問者が現れてご利益を受けようなんて都合が良すぎると思う。
神社の方も氏子の方々も長い長い歴史を持っているのだ。
言わば一見さんの我々のような訪問者はそうした活動の邪魔をしないようにしなければならないと思う。
管理人はいつから神社巡りをはじめたのか
ハッキリとした記憶がないのだが、管理人が神社巡りをするようになったのは7~8年前ではないかと思う。
最初は近所の神社を歩いて巡った。
各神社の由緒書を見てご祭神や創建時の事情やその後の経緯を見てそれぞれに感じ入ったものだ。
自分の体の中に流れる日本人の血はとうやって形造られたのだろう。
また自分の思考回路や価値観ってどうのように形つくられているのだろう。
先祖が築き上げてきたこうした事が長い年月を経て今の自分の中に息づいていると思うと無性に知りたくなったのだ。
最初は近くの神社から周り始め、現在では日帰りできる範囲までは足を伸ばしている。
たくさんの神社を巡ってみると以外なことに現在の都市感覚や交通感覚とは異なる中に神社はあるのだった。
もう少しわかりやすく言うと以外な所に意外な神社があったりするということだ。
櫛石窓神社(くしいわまどじんじゃ)
日本は八百万の神々と言われるほど神がたくさんいらっしゃる。
この多神教という部分が日本人の根底にあるのは間違いない。
そしてその尊崇の対象は様々だ。
自然を畏怖してきた日本人は万物に神を見出して祀ってきた。
その名残が巨石や磐座への信仰だと思う。
また神は天から降りてこられるので高いところ、具体的には鳥居や柱が重要な存在である。
また磐座と呼ばれる山の頂上近くにある(コレが重要)巨岩が信仰の対象となることもある。
今回のお話しの櫛石窓神社(くしいわまどじんじゃ)は裏山の磐座が御神体となっている。
現在は国道沿いのこんもりとした林の中に静かに鎮座されていてそれほど目立たない。
櫛石窓神社の社格は丹波では唯一の延喜式内名神大社となっている。
櫛石窓命(くしいわまどのみこと)を主祭神とする。
また2神の御神像は国の重要文化財となっている。
現在は少し鄙びた静かなたたずまいではあるが櫛石窓神社は社格の高い神社だったらしい。
管理人が神さまを最初に感じた場所
管理人が初めて櫛石窓神社に訪れたのはいつだったかハッキリしない。
だがその際に鳥居をくぐり櫛石窓神社の神域に足を踏み入れた際にハッキリと感じる事ができた。
林の中に佇む社殿を見た時に、ああ神さまがいらっしゃると感じた。
こんな感覚を管理人が感じたのはこの時が初めてだったので少しビックリしたというか面食らったのを覚えている。
この経験以来、時々こうした神さまがいらっしゃるという感覚を受けることがある。
それに共通しているのは木々が生い茂っていて自然が周りに残っているところが多く思う。
やはり自然環境と神々の関係は切れないものだのだろう。
拝殿の後方に本殿があり、その裏手が磐座のある御神体の山。
現代人が失った感性
管理人は時々なんとなく思うのだが現代人は失った感性がたくさんあるのだろうと思う。
文明が進み人々の生活は便利になったが失ったものも多いのだろう。
これはまったく根拠がない管理人の個人的な意見であることをご了承いただきたい。
昔の人は感じることができた事が現代人では感じ取ることができなくなっているのかもしれない。
感じるだけではなくひょっとしたら見えていたのかもしれない。
さらにその場所に神社があるという意味も考えなければならない。
きっと理由があるはずなのだ。
管理人は先人の知恵と経験が詰まった神社という存在をもっともっと見てみたいと思っている。
今回はこのへんで
では